3人の発明者
いわゆる腰掛け型の人力車を発明した人物については諸説ありますが、その中でも東京府に人力車の製造・営業を出願して許可を得た事実から、和泉要助・鈴木徳次郎・高山幸助の3人を発明者と見るのが定説となっています。 彼らは明治3年3月22日、3人連名の出願書に雛型寸法書を添えて提出しました。
この出願に対し、東京府は3月24日に許可を与えました。
(3月24日は「人力車発祥の日」として登録されています。日本記念日協会)
許可にあたって、車体は「素朴」に製作し、華美にならないように、また事故を起したときは厳しく処罰する旨を含む四か条の規則を申し渡しました。
発明者の一人、和泉要助が開いた
出島屋要助商店の人力車
日本橋高札場付近を拠点に営業を開始したものの、はじめは皆恥ずかしがってさっぱり客はつきませんでした。
そこで親類や家族を客に仕立て、近所中を引いて回ったところ、段々客もついてくるようになりました。
五街道の起点である日本橋を宣伝場所に用いた効果は大成功で、日が経つにつれて次第に利用客も増え、わずか3、4年余りの間に人力車は目を見張るようなスピードで普及しましたが、新規加入者は彼ら3人のうち1名から印を押してもらえなければ人力車を買えず、営業も出来ませんでした。
しかし3人は人力車が普及するにしたがい専売出願の立ち消えなど、許可を得てから僅か3年でそれまで持っていた権限の全てが剥奪されました。